2016年10月06日

自分の人生について@誕生から幼少期

先月の下旬に突然電話がありました。
「父が腐乱死体で見つかった」という報告が母からありました。
約25年会っていませんでしたが、肉親は私一人しかおりません。長く会っていませんでしたが自分が生まれたときに世話をしてくれた父なので、逆に父が死んだ時は私がいろいろやらなくてはならないのではと思い日本に帰ることにしました。
ちょうど新店舗のオープニングができない状態で予定がずれ込んでおり、今月の頭に休みが取れることになったのでいろいろな対応をしに日本に行ってまいりました。
そのことに関してはまたあらためて書くとして、そのときにいろいろ考えることがあり自分の経験や思いを何かに残そうと思い長らく更新の滞っていたブログを再開することにしました。
そして自分の人生の記録をここに残そうと思いました。
長いお話になりそうですが、もしご興味ありましたらご覧いただけるとありがたく思います。

@誕生から幼少期
自分が生まれたときに両親は東京に住んでおりました。なので私は東京生まれです。小学校に上がるまでの幼少期は中野や練馬などに住んでおり6歳までは一人っ子でしたので親からも可愛がってもらいながら育っていたようです。4,5歳頃の私は東武練馬の駅近くの北町というところに住んでおり、近所の友達を引き連れていろいろなところに冒険に行くのが好きでした。近くにあった浅間神社が主な遊び場でしたが、近所の子供を2,3人引き連れて東武東上線で近くの駅に行きみんなで冒険しながら帰るのが私の好きな遊びでした。最初のうちは隣の上板橋駅まで行き確実な線路沿いを歩きながら帰ってましたが、だんだん慣れてくると線路付近から外れて違う道を使ったり、さらには先のときわ台の駅まで行ったりもするようになりました。今でもまだ覚えていますが、そんな遊びを繰り返していたある日、その中の一人の子が不安になったのか泣き出して周りの大人たちが心配しだして、その中の親の誰かと連絡を取り誰かの母親が迎えに来て、私はみんなをまとめていたリーダーでその遊びの言い出しっぺだったのでかなり怒られその遊びを禁止されて悔しかったことをうろ覚えですが今でも覚えています。
私は本当に変わり者で6歳くらいの頃、まわりの子たちはピンクレディブームでみんながピンクレディファンだったのに私はサーカスというコーラスグループが大好きでした。あの頃から遊び方も好きなものの趣味も他人に影響されない独自の価値観を持ち出すようになりだしていました。とくにMrサマータイムという曲は今でも好きなメロディですね。
妹が生まれるまでの6歳までの間はそれなりに可愛がってもらいながら、甘やかされて幸せな幼少期を過ごしていました。今でもその記憶は所々残っております。
しかし、妹が生まれることによって私の生活は大きく変わりだしました。

その頃に好きだった"Mrサマータイム"のフランス語バージョンです。もし良ければ聞いてみてください。

次回は
A虐待を受けていた小学校低学年時期
を書かせていただこうと思います。

2015年04月19日

白血病の妹が私に与えてくれた様々なもの

過去記事からの転載再掲載です。
今日だけは酒を不味くするかもしれませんが・・・
ちょっと今日は淋しくなるような悲しくなるような湿っぽい思い出の話、体験談を書きます。

ですので、見たくない方や仕事中の方、ハッピーな気分でいたい方はこの時点でスクロールせずに読むのを辞めてください。





実は私の妹は約20年前に白血病で他界してます。
妹の病気が判ったのは、私が小学生の頃父と母が別居の為引越しをしたのがキッカケでした。

引っ越して妹の病院を変えたところ、今までの病院ではたいしたことないと言われていたのに、いきなり妹は日大病院に連れて行かれ入院。

当時妹はまだ3歳でした。
その日から私は、半一人暮らしの生活が始まりました。
世間で俗に言う鍵っ子になりました。

昼間は看護婦さんが妹を見てくれていますが、夜は母が付き添わなくてはならない為、母はいつも昼のうちに仕事に行き、家に帰ってきて家の事を済ませると毎日病院に泊まっていました。

私は毎日、家に帰ると壷の中にある500円札を持って自分で夜ご飯を買って食べてました。
当時9歳の自分には、少し寂しい夜の食事でした。

そんな毎日を繰り返しながら、時々学校が終わって病院へ行きますが、小児病棟への子供の立ち入りは禁止されている為、妹にはほとんど会うことは出来ませんでした。
妹にも会えず、母とも時々しか会うことができず。

母の友人や知り合いは妹のお見舞いに行くことはあっても私には誰も会いに来てはくれませんでした。
正直当時の私は妹に嫉妬しました。
毎日、学校が終わって家に居るのが寂しくて壷の中の500円札を持って遊びに行きました。

他の友達は夜まで遊んでいると親から怒られていましたが、誰も私のことを怒ったり、家に連れ戻してくれる人はいませんでした。
ある夜、私は熱を出しました。
引っ越してからあまり近所付き合いもなく、周りに誰も頼れる人も無く私は熱にうなされました。

あの時ほど寂しく辛い夜はありませんでした。
私はあまりの苦しさに母に電話しました。

しかし電話の向こうで母は「友人のおばさんにすぐに行ってもらうから」と私に言いました。
当時の私の子供心としては、やはり母は妹のほうが大事なんだぁと、ひねくれたとらえ方をしてしまいました。

まだわがままな子供だった私は正直、寂しさと辛さのあまり「もうこのまま死んでもいい」なんて馬鹿なことを考えたりもしていました。
そしていっときするとおばさんが来てくれました。
おばさんは私を看病してくれましたが、やはり私はこんなときにも会えない母親のことを考えると寂しくて仕方ありませんでした。
しかし次の日の朝私が目を覚ますと、横に母が居ました。

その時私はすごく反省しました。
私も母の大事な子供なんだと思うと病気で苦しむ妹に嫉妬していた自分が馬鹿だったと・・・
6歳も歳が離れた病気の妹に、嫉妬するなんて・・・
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妹は入退院を繰り返しながらも月日は流れ、私は16歳の10月に社会人として静岡に行きました。
そして初めて貰うお給料日の翌月には妹の誕生日がありました。
初めて貰ったお給料で私はサンタクロースのぬいぐるみをプレゼントで送りました。
決して高い物でもないし、たいした物でも無いのに妹は喜んで、大事にしてくれました。
きっとこの時、喜んでくれる妹を見て「人が喜んでくれるということって、こんなに素晴らしいことなんだ」と思った私は、人に喜びを与えるサービス業という世界への道を歩み始めたような気がします。

妹はぬいぐるみをいつまでも大事にしてくれました。
クリスマスが終わっても、夏になっても。。。
人に与えた物をこんなに大事にしてもらったのは、生まれて初めてでした。

そして、それから妹は入退院を繰り返しながらも約5年の月日が流れて、連休をもらって帰省して妹の病院に行きました。
妹はとても元気でした。車椅子で散歩(病院には内緒で外に抜け出したり。。。)に行ったり、いろんな話をしました。

そして、私が聴いていた曲に興味を持ちました。
Stevie BのBecause I Love Youという曲です。
私はその曲のCDを妹に買ってあげました。

それから何ヶ月か過ぎて、母から電話がありました。
「妹の意識が戻らない」と・・・
妹は自分で呼吸をすることも出来なくなり、喉を切って管が通されていました。
久し振りに会うのに口もきいてくれず、目を開くこともありませんでした。
そしてずっと意識は戻りませんでした。
妹のベットの横には汚れたサンタクロースのぬいぐるみがありました。
そしてCDラジカセの中には私があげたCDが・・・

ある晴れた日に、苦しむことしか出来なくなった妹の延命処置をやめていただくように私と母から御願いしました。
外は晴れていたのに雨が降り出しました。

泣き崩れる母の前で私は涙を流すことは出来ませんでした。
私が中学生の頃から、担当していた看護婦さんも横で泣いていました。
そして通夜の夜、妹は子供だった為来られる方もそう多くは無いだろうと思っていた母と私はビックリしました。

私も知らない多くの人達が妹の通夜に来ました。
話を聞くと妹は生前、空き地で花を摘んできて近所の人にあげたり、あめ玉をあげたり、いろんなところで会う人々に挨拶をしたりしていたらしいのです。
きっと妹が生きていたら最高のサービスマンになっていたかもしれません。。。

多くの家の近所の人達や病院周辺の人達が来ました。
通夜は予想以上に長引き多くの人々が来て、深夜までかかりました。

葬式当日、母が打ち合わせをしている時に私は妹の棺に行きました。
それまで母の前では流せなかった涙を私は流しました。
本当に身体中の水分が無くなってしまうのではないかというくらい泣きました。

そして葬式も終わりかけて、母が喪主の挨拶を終えようとした時、母は倒れそうになりました。
私は母をしっかり支え二人で最後の挨拶を終えると、母は力尽きるように私に全体重を預けてきました。
この長い間、頑張って病気の妹を支えてきた母の闘いは終わりました。

そして、こんな妹がいてこんな母親がいたからこそ今の私があるのです。
家族の愛、人への優しさや思いやりの大事さを私は子供の頃に身近に感じることができました。
悲しいことも辛いこともあったけど、それ以上に大きな愛があったから私は今まで生きてこれたんだと思います。
こんなありがたい人生を私は大事にしていこうと思います。
病気の幼い娘と手のかかる息子を女一人で育ててきた世界一の母親には、心から感謝しています。

こんな湿っぽい記事で申し訳ありませんでしたm(__)m
そして私はこうしてバーテンダーとして新たな考え方を持って歩み始めました。
http://jpbartender.seesaa.net/article/417102586.html

妹にあげたCD、Stevie BのBecause I Love Youもしよければ聴いてみてください。

2015年04月11日

私がバーテンダーになった理由

久々に過去記事からのコピー編集です。

私がバーテンダーになった理由。
お客様によく聞かれる質問があります。
「なんで?バーテンダーになったんですか?」と聞かれます。

これを読んでいただけたら、私が他のバーテンダーと違う特殊な行動をしていることにも納得していただけるのでは・・・と思います。

私の家庭環境はちょっと特殊な環境でした。
酒乱の気があり、仕事にも怠け癖がある父親といろんな仕事で才能を発揮する母親の二人に育てられた私は、あまり父親を尊敬していませんでした。
父親に悩まされる母親を小さい頃からずっと見続けてきました。
夫婦喧嘩、家庭内暴力などは日常茶飯事で私や母は暴力を受けて病院で精密検査を受けなくてはいけない状態になったこともありました。
でも、友達や同級生達の家庭の話を聞くと偉大な父親のいる家庭は少なくありませんでした。
正直、父親に憧れるような親子関係のある家庭。
そんな家庭が羨ましくもありました。

そして私が小学生の時に、両親の別居が始まりました。
そんなタイミングで妹の白血病が発覚し、この時は特に母親の強さと父親の頼りなさを感じてしまいました。

そんな家庭環境で育った私は、ある時『世界一の父親になりたい』と思うようになりました。
それは、自分の家族からは尊敬されたい、子供にとって憧れの父親であり、女房にとって頼れる旦那でありたい。
他人には認めてもらえなくてもいいから、自分の未来の家族には認めてもらいたい。
そして社会に出て感じたことは「良き父親に必要な物って?」というそれまでの疑問に対しての答え・・・

仕事のできる男、家族の為に働く父親。
これではないか?と
まだ若かった時、体育会系の先輩達と飲みに行くことが多く、一気飲みなどばかりでお酒を美味しいと思わなかった私はある先輩に連れて行かれたお店でお酒というものの見方が大きく変わりました。
カクテルという今までに無い新しいお酒の飲み方に私は魅了されました。

翌日の休みの日は本屋さんで買ってきたカクテルの本を一日中見ていました。
見たことも聞いたことも無い様々なお酒に好奇心を掻き立てられて、私の関心はそこに集中していました。
知りたいという気持ちの強さが気がつかないうちに私の勉強意欲に変換されていました。
そして、ふと「これだけのエネルギーを仕事に注ぎ込めたら?」と考えました。
その時、私はバーテンダーになることを決意しました。

しかし私のイメージしていた華やかな世界とは違い、グラス洗いやトイレ掃除等の雑用を繰り返し、お酒のボトルに触れることも無いような日々がずっと続きました。
そんな毎日を繰り返すうちに「世界一の父親」思想はどこかに忘れ去られていきました。

そして、やっとカクテルを作れるようになりだした頃・・・
妹の他界という大きな状況変化にぶつかり、私は店を辞めて九州に帰ることに・・・

↓妹の病気のことはこちらに書いています。(こういう考えを持った理由がわかってもらえるかと思います。)
http://blog.livedoor.jp/cigarbar/archives/713734.html

妹に一度くらい私の作るお酒を飲ませてあげたかった。。。
人の死という避けられない、いつかは必ず訪れる現実を考えるようになり。
「自分が生きている間に何ができるのだろうか?」という疑問にぶつかった。
そしていっときの間バーテンダーという仕事から離れることに・・・

その何年か後のクリスマスの日にアナウンサー、エンターテイナーとして多くの人々を魅了してきた逸見政孝さんが亡くなられました。
その時テレビで娘さんが会見で涙しながら「世界一のお父さん」という発言を・・・

この時、私の忘れていたものが蘇ってきました。
人は死んでも、周りの人々に残せるものがある・・・
死んでも家族や知人が誇りに思えるような男になりたい。
たった一度の人生かもしれないけど出来ることはたくさんある。
自分の為だけに生きるような小さな人生では無く、人々に何かを残せる大きな人生にしたい。
そして、それをまわりの人々に誇りに思ってもらいたい。
死んでも存在し続ける男になりたい。
子供や孫、親戚、友人、仲間に誇りに思ってもらいたい。

私が今までで一番一生懸命やれたこと、一番情熱を注ぎ込めると思ったこと・・・バーテンダー!
多くの人々に幸せを与えられるお酒を提供していきたい。
悲しい時も嬉しい時もお祝いの時もそして寛ぎたいときもお酒は裏切らず。
喜びも悲しみも、出会いも別れもあり、時には喧嘩もあるバーという舞台に立って、多くの人々を幸せにしたい。

そして、日本の酒文化に何かを残したい。
そしていろいろ自分の残せることをやっていこうと思って仕事をするようになりました。海外に出るということもその中の一つでした。
バーテンダーなんてたいしたお金にもならない、儲かるような仕事ではないかもしれないけど、それは自分のそんな夢の為にやっていることなので全く苦にはならないし、逆にやりがいと生きがいを感じています。

私のやっていることがどれだけ世の中で役に立つかはわかりませんが、少しでも人々の役に立てたらと思ってます。
私はそんな思いでバーテンダーになって、バーテンダー続けてます。


Hirakawa
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